「知」が先か「情」が先か。文先生と劉孝元先生の議論の証し

「知」が先か「情」が先か。文先生と劉孝元先生の議論の証し
「知」が先に立つのか「情」が先に立つのか、哲学的な話題として、原理講論の執筆者である劉孝元先生と文先生との間で討論されていた証しがあります。

ファミリー1997年10月号に、劉孝元先生の奥様 史吉子先生の講話が掲載されており、その中で紹介されています。

劉孝元先生の略歴

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1914年 平安北道定州で出生
京城帝国大学(現在のソウル大学校)入学医学部予科を経て本科四年在学中に脊椎カリエスを患い1939年に中退
(※脊椎カリエスとは、結核菌が脊椎をおかしていく病気。劉孝元先生の場合、それが股関節にまで降りてきていたのに発見が遅れ、手術を余儀なくされた。その時に、結核菌におかされてしぼんだ骨を切り取ったので、片足が曲げられなくなってしまった)
1953年 原理原本筆写本を通読後、その年12月24日釜山で真のお父様に出会い入教、
1954年 協会長に選任され、原理講義、『原理解説』、『原理講論』の整理等で大きな活躍
1960年4月 三家庭祝福
1970年7月 肝臓がんで昇華 享年56歳

史吉子先生の講話

以下本文を抜粋

原理原本の体系化

1957年か8年ごろのこと、彼(注・劉孝元先生)はお父様から、「あなたが『原理原本』を体系させなさい」という指示を受けました。その際、お父様は夫に対して、「絶対に自分の感情とか考えを入れてはいけない。神様とイエス様、お父様だけを考えながら書くように」と念を押されました。
「原理原本とは、お父様のまな弟子であられる金元弼先生が、北韓にいた時代から、お父様の指示に従って書かれたものです。金元弼先生は、いつお父様に、「書きなさい」と言われてもいいように、常に白い紙と鉛筆を準備していたそうです。そして、お父様が神様と一体化された状態で話されるのを書き写し、また、お父様ご自身が書かれることもあったそうです。
そうしてまとめられた「原理原本」を、私も読んで見ました。ところが、これがなかなか難しいのです。

霊的な内容なので、ただ読んだだけでは分からないのです。それを劉協会長は、とても頭が鋭いので、普通の人でもわかるように体系化したのです。後年、お父様がアメリカで「よくもあのような霊的な内容を体系化したね」と、私の前で2度もおっしゃったことでもわかるように、「原理原本」は非常に難解なものだったのです。

 

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こうして大きな使命をいただいた夫は、日ごろお父様の語られることを参考にしながら、「原理原本」を一つ一つ解読していく作業を始めました。お父様が、「今日は、ここまでやりなさい」と線を引いてくださるので、その指示に従うのです。
それは、彼にとって大変に難しいことでした。毎日、静かな場所を探しては書き進め、できた分をお父様の前で読み上げるのです。その姿は、まるで学生のようでした。お父様は単語一つ、文章、内容のすべてを注意深く聞かれました。そして、間違っていたら、「そうではない。このように直しなさい」などと指示を下さるのです。

「知情意」か「情知意」か

時には、二人で討論になることもあったそうです。それはたとえば、「知情意」か、「情知意」か という問題です。

劉教会長は、「堕落したものは愛も何も知らない。ですから、まず本当かうそかを分別しなければなりません。ですから真理が先で、それから感じて行動するので、『知情意』の順番が望ましいと思います」と、お父様に申し上げるのです。

するとお父様は、「いや、そうではない。人間がどんなに堕落して原罪を持っていたとしても、人間はもともと、神様から来た者なので、本心は神様に未だにつながっている。だから 何も分別しなくても、まず感ずる世界があるのだ。いいものか悪いものか、本心が知っている。だから『情』が先で、それから初めて分かって行動するのだ」と言われ、「情知意」を主張されるのです。

しかし、夫も自分の意見を曲げないのです。 そうして、「今までの論理が『知情意』と言ってきました。突然にこれを変えても、ちょっと困るのではないでしょうか」
と申し上げて、とうとうお父様が「今はそうだね」と譲って、負けてくださったのです。

ですから、お父様は今でも時々「原理講論のある所はちょっと気に入らないし、直す所もある」と言われるのです。

このように、夫があれやこれやとお父様と激しく討論すると、お父様は「今は、それくらいにしておきなさい」と言われるのです。
すると夫は、「お父様、恐れ入りますけれど、書く人が完全に理解しないで書けば、読む人はもっと分からないので、はっきりと教えて下さい」と食らいつくのです。

出典元 ファミリー1997年10月号 P53から54

心のウロコが落ちなければ

この史吉子先生の証しにおいて注目すべきは、文先生が語られたところです。

「人間がどんなに堕落して原罪を持っていたとしても、人間はもともと、神様から来た者なので、本心は神様に未だにつながっている。だから何も分別しなくても、まず感ずる世界があるのだ。いいものか悪いものか、本心が知っている。だから『情』が先で、それから初めて分かって行動するのだ」

この部分は、お父様の御言を理解する上でも非常に重要なポイントであります。

すなわち、御言を理解しようとするときも、頭で考えながら読むものではなく、神の心情に通じて読まなければならない。訓読する時も、そこに表された言葉が何を語っているのかを深く心情的に探していくように心がけるべきだというのですね。

神は真の愛の主体であられます。その神の心情と私の心が通じあう基準が立つことによって神の心情が復帰されていきますね。そうすると、神の中のロゴスが溶け出して、私の心の中に流れ込んできます。だから、神の心情に通じて語る先生のみ言の意味が心情的にわかるようになるというのです。

目からウロコが落ちるといった次元ではなく、心からウロコが落ちなければ、御言が見えてこないということになるのでしょう。

「情知意」に是正しなければならない

後に先生は説教の中で、「知情意」ではなく「情知意」であり、これを修正しなければならないと語られた御言がありました。

1992年8月27日 ソウル国際研修院で語られた「四大心情圏と三大王権」と題名が付けられた説教の中で語られております。(祝福76号P106に掲載)

ですから、愛が先なのか、神様が先なのか? これが問題になります。愛自体は人格的になることができません。人の人格であれば知情意があります。しかし、愛自体には情しかありません。それで男性であれば男性、女性であれば女性を中心として、為に生きるところにおいて知が出て来るし、意が出て来ます。そして、情が一つになろうとしますから、希望が出て来ます。
世間では「知情意」と言っていますが、本当はそうではありません。「情知意」と言わなければなりません。これを皆、是正しなければなりません。

「知情意」と主張された劉孝元先生の意向を汲んで世に出された原理講論。文先生も「今はそうだね」と1958年当時には譲られておられました。しかし、92年の段階になって「’情知意’と是正すべき」と改めて指摘されたことを見ますと、この時点で私たちは原理講論を検証しなければならなかったのでしょう。

・情が主体である
・本心は神様に未だにつながっている。
だからだから何も分別しなくても、まず感ずる世界がある。
・良いものか悪いものか、本心が知っている。
 だから『情』が先で、それから初めて分かって行動する

発刊後半世紀以上経過した今日、未だ内容の改訂がありません。原理講論が教会創始者の執筆であれば、宗教の経典の性格上困難かもしれませんが、そうではないのですから、これから不足なところ、誤ったところを積極的に修正すべきではないでしょうか。

 

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朝日奈
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