理想の姿になれないのは努力不足のせいでしょうか
ここ数年、原理講論を手に取って読み返すということがありますか?
各団体において訓読会の伝統が立ち始め、先生が定めて下さった八代教材教本の中で、特に天聖教や平和神経など、原理講論より先生の説教のみ言を優先して訓読されておられるかと思います。
八代教材教本 8冊
●文鮮明先生み言選集 ●原理講論 ●天聖経 ●平和神経 ●天国を開く門 真の家庭 ●平和の主人・血統の主人 ●世界経典 ●家庭盟誓
しかし、「原理」といったら、やはり原理講論を指していうのであり、修練会やセミナーなども、原理講論の内容についての講義が主流となっています。
原理講論の検証
私が学んだ成約原理初級講座の一番初めには「原理講論の価値」について説明しています。
これは家庭連合(統一教会)における「聖典」に匹敵する書物である「原理講論」について客観的な視点から検証した内容となっています。
教会の教義に対して「検証する」などと言われたら、信じ従っている者からすると、なんと不信仰で不謹慎極まる行為だとして非難する人もおられることと思います。私が学んだ当時(2006年)は、まだ先生がご存命中でありましたから、まかり間違えば、教祖批判、教会批判ととらえられてしまいます。
そして、実際、日本統一教会の3名の代表講師が連名で「誤りを正す」という書籍が出され、その中で反論を展開しました。
成約時代の原理、文先生のみ言の中にある原理の解説・・・この登場は教会中枢にとっては衝撃的だったようです。これによって、家庭連合の中枢にいる指導者たちが、人間の完成に必要な血統転換についてどのように考えているのか、普段なかなか知り得ない内容が明文化されて出てきた大変貴重な資料となったのです。
※「血統転換」については、のちほど皆さんと考えてみたいと思います。
あなたに質問します
さて。私たちが家庭連合にご縁をもって最初に「原理」や「信仰」というものについて、あるいは、「神」についての内容を教えてくれたのは、明らかに「原理講論」でしたね。
ここで、一つ質問させて下さい。
どうしてあなたは家庭連合に入会したのですか?
いわゆる一世の方は、教会で結婚し、すでに何十年の時を流していると忘れがちな原点の話です。
二世、三世の場合ですと、親が家庭連合の信仰をもっていたから従ってきたと言われるでしょうか。
私でしたら次のように答えます。
家庭連合(当時統一教会)に入ったのは、統一原理が真理であると確信したから。
そして、統一原理が教える信仰を実践し、神の願う理想的な私、理想の家庭を築きたい・・・そう思ったから。
思ったことをそのまま文にしてみたら、なんとも教科書に書いてあるような内容になりました。
でも当時「献身」を決意するに至った動機というのがあって、私の場合、育った家庭環境が良くなかったことから、特に「理想家庭を実現させる」ことへの思いは人一倍強かったと思います。
朝日奈さん、それで今どうなってるの?
さて、この回答を目にした貴方は、即座にこのような質問をしたくなるでしょうね。
その問いに対して、私は胸を張って
感謝です! お蔭様で信仰の実践を通して理想が実現しました!
と言いたいところなんですが・・・
実現させようと日々努力はしています。、、、でも、まだちょっと・・その—-
その原因はどこのにあると思ってますか?
もしもさらに突っ込まれたら、きっと頭を掻きながら
―――いや~ ぶっちゃけ難しいです・・
わたしの蕩減なんでしょうが、理想の家庭はおろか、家庭を持ってわかったのは、私自身が理想の人になっていなかったんです。
先生のおっしゃる、心と体の統一はなかなか難しく、夫婦の関係や子供をみていても・・・
今や子供たちは成人となり、結婚適齢期になっていますが、私の解決していない課題がそのまま子供に現れているではないですか!
やはり、私自身の努力が足りていないからだと思います・・・
努力不足以上に本質的な問題点があるという指摘
ところが、講義の中で講師はこう言います。
「一体何が悪いのか、どこがおかしかったのか、私達の努力が足らなかったのでしょうか?
もっともっと努力すればできたのでしょうか? ものすごく頑張ったつもりだけど、何か他に原因があってできなかったのだろうかと考えてみたときに、努力も足らなかったかもしれないけれども、もっと本質的な問題があったのです。
それが何かというと、 実は、私たちに真の人間となっていくことを教えてくれた「原理」というものが、「完成した原理」であったのかということが問題だったのです。
すなわち、教育が100%正しくて100%なされているなら、教育内容において100%のものであれば、100%一生懸命努力した人は100%完成しなければいけないでしょう。
でも、教育した内容が50%しかなかったとしたら、どんなに熱心に頑張ってみても、50%の結果しか得ることができないのではないでしょうか。
学校の先生が1年間教えなければいけない内容があって、それを半分しか教えなかったら、子供たちはやはり半分しかわからないので、その上のクラスにいくのは難しいということと同じですね。」
私はこれを聞くとすぐ心の中で反論しました。
―――でも、原理講論が真理の一部分であるのは事実であるとしても、それを補完してくれているのが先生の御言であるし、勝共理論や、統一思想もあるではないか・・
ところが講師は、
原理講論には統一教会のもっとも核心となる祝福についての説明が欠落しているし、文先生の御言の中でも、人間の成長に関する縦横の八段階の御言、ホームチャーチ、皇族圏、氏族メシヤ、還故郷など、かなり重要な概念のキーワードが登場してきたのにもかかわらず、依然として7日修、21修などの修練会では、原理講論を中心とした教育をしています。
勝共理論や統一思想も学んだという人がいるでしょうが、私たちに信仰というものを教えてくれましたか?
勝共理論は基本的にはマルクス主義や国際情勢の勉強だったし、統一思想は哲学や思想の勉強であって、そこには教育論や芸術論などがあるけれども、私たちに原理を教えてくれる内容ではないのです。
「原理」や「信仰」あるいは、「神」というものについての内容を教えてくれたのは、やはり「原理講論」だった・・・
我々の学んだ原理が「不完全」であった
ふーむ・・・なるほど・・・
信仰を持つ人は、問題の原因を自分の外に求めることを好みません。ですから、私が今ある姿は明らかに私のせい、私の努力不足の結果なのであって、「原理講論」のせいだとは考えもしないでしょう。ましてや、何十年も毎日先生の御言を訓読されている方にとって、今さら「原理講論」の話を持ち出してああだこうだといった話を聞くこと自体、不快感を覚えることでしょう。
しかし、現時点において、入教した当時より少しでも理想に近づいている・・・というなら反論の余地はまだまだあるでしょうが、時間が経過するにつれて個人だけでなく家庭や、さらに教会組織においても様々な課題を抱えるようになっていきました。
それに、最も深刻な問題は、教会の中心であり、私たちの理想、目標となるべき先生のご家庭ですら、「真の家庭」であるというには、あまりにも困難で深刻な事実が数多くあるのです。そんなことはないと、かつては臭いものにふたをしてきましたし、その原因を「信徒たちの不信仰ゆえの蕩減」だからとして片づけられました。
しかし、ただ信じ従うだけでよいのでしょうか。イエス様が言われたうように、「私の中に父がおり、父が私の中にいる。私を見し者は神を見し者」・・と堂々といえる「私」になることが文先生の言われる私たちが目指すべき理想の姿でありました。
原理講論発刊後50年以上の歳月が経過した今日、自分を含め、まだ大半の人がそうなれていないというのであれば、やはり問題の核心部分は、我々の学んだ原理が「不完全であった」ことに起因するとみて間違いない、そう考える方が理屈にあっているのです。
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