「血統転換」と「心情転換」

「血統転換」と「心情転換」

【広先生】

「もう一つの問題点というのは
『血統転換』と『心情転換』の概念をまったく別個のものとして分離し、祝福による『血統転換』は、『心情転換』という実存の変化を伴わなくても法廷論的な手続きによって、客観的、法律的に『戸籍の移動・・』すなわち、サタンの血統から神の血統への移動が行われたとみなしたことなんです。

【私】

「ええ~??? 血統と心情は明らかに違うものじゃないのですか?」

この時の「私の考え」を代弁してくれているのは、光言社から出された書籍「祝福結婚と原罪の清算」P46の部分です。

結局、我々に「原罪がある」とか「原罪がない」といかいうことは、その人が良い人か、悪い人か、あるいは堕落性が強いか、弱いか、などという人格の内容面とは、一切関係なく我々が堕落したアダムとエバの子孫(血統圏内)であるという法的な評価が下さている間は、例外なくすべての人に原罪が及んでいるのであり、反対に、ある手続きを通して、我々が第三アダム・エバ(真の父母)の血統下に生まれ直した(=重生)という法的な評価さえもらえるならば、どんなに人格の歪みのある人でも、また未熟な人であっても、その瞬間から「原罪はない」という立場に立てることを意味しています。       「祝福結婚と原罪の清算」P46

【広先生】

「現状は、人間の実存の内容面と、その人間の客観的評価を全く別個なるものとして扱うことによって、祝福家庭の実態が多くの問題を抱えていたとしても〝法廷論的”には『救われている状態』すなわち〝無罪である”と表現することが可能になってくるのです。

先ほど、朝日奈さんは、罪と堕落性の概念を分けて、より明確化させたことこそが、キリスト教神学のあいまいさを正した点だ・・と統一原理の優位性について言われましたが、

この考え方が、先ほど言った、プロテスタント神学における主に改革派の契約神学に近いもので、これこそが、キリスト教の他力型恩寵論の再現となっているのです。

原罪を脱ぐとは、心情的血統の回復

私にはそもそも神学の知識がなく、カルヴァン派や「契約神学」などを持ち出されて説明されても意に解せず、逆に、私の情の部分が猛反発を始めました。

いやいや違う違う・・・そうじゃないだろう・・・
心情転換は我々の責任分担であり、将来にわたって努力すれば無くすことは可能だろうが、「原罪清算」に関しては、堕落人間がどんなに努力しても、人類は、堕落した人類始祖の血統圏の中にいる以上、原罪というサタンの讒訴圏は消すことができないのだ。

唯一、サタンを屈服させたメシヤだけが、原罪を許す権能をもって来られ、メシヤの許しの宣告による清算が絶対に必要なんだから・・・
やっぱり心情転換と血統転換は別物だ・・・

「先生 やはり原罪が祝福によってなくなり、心情転換は私たちの責任分担5%だと思うのですが。
つまり原罪が最初にとれて、あとから心情を復帰するのでは・・・」

私がこう反論したところで、横から同僚が口をはさんできました。

「朝日奈さん、ここに「祝福家庭と理想天国」というお父様のみ言があります」

そういって分厚い御言集をカバンから取り出して私に見せました。

P683のところです。
この部分、ちょっと読みますね。

「この地上のキリスト教徒たちは、主が来られるようになれば原罪を脱ぐのだと言いますが、原罪を脱ぐとはどういうことでしょうか。それはサタンの侵犯をを受けない心情的血統の回復を意味しています。最後の最後まで残るものが、これです。」

原罪を脱ぐとは、心情的血統の回復を意味する
とはっきり言われておられますよね。

このみ言からすると、原罪が先に脱げるのではなく、心情的血統の回復なので、最後の最後まで残るとなっているじゃないですか。
『心情的血統』という表現は、血統と心情を分離して考えておられない・・・」

確かに・・

初めて目にする御言でした。

 

次の記事 → 家庭連合(統一教会)内にあった「二つの見解」

PAGE TOP