罪と堕落性を分けて考える危険性

罪と堕落性を分けて考える危険性

【広先生】
「まず、罪と堕落性を分けて考えることに対する問題なんですが・・・
これは、罪と堕落性という、対比の仕方に問題があるんです。

全く異なる二つの観点が考えられるんですね。

一つは「価値あるいは評価」という観点です。
すなわち、‘罪であるのか`、‘罪でないのか‘ という観点で・・・

もう一つは、動機なのか、行為なのか という観点です。
これら二つが混在しているでしょう?」

【私】
「はあ・・」

とりあえず最後まで話をきくことに努めました。
ただ、納得いかない表情をしていたらしく
先生は、そんな私の気持ちを察っして

【広先生】

「価値という観点からいいますと

これは、罪と堕落性という並べ方をすると、堕落性が一見、罪とは対極にある、「罪ではないもの」ととらえられてしまう危険性があるのです。

要するに、外的な行動に移らない限り、堕落した性質そのものは罪ではないという解釈が出てきてしまうことなんです。

【私】

「えっ?」

ここでまた引っかかりました。

「でも、堕落性は罪なんですか?

堕落性といえば、しっとやねたみ、過度の欲望、浮気、エゴ、反逆とか責任転嫁とか・・・
これらが「罪」なんでしょうか??」

どうも納得がいきません。

【広先生】

「なるほど、ちょっと待って下さいね。

同じように、罪の概念も堕落性という性質。心の在り方、動機といった精神的なものではないもの、いうなれば、外的結果的な「行為」のみが罪の定義に含まれると解釈されてしまう危険性があるということなのです。」

【私】

「でも先生、
『分けて考えたことが問題だった』とのご指摘なんですけど
言葉を分けて、概念をより明確化させたことこそが、統一原理がキリスト教神学のあいまいさを正した点なのではないでしょうか?

ですから、いくら堕落性が強いといったって実際に天法を犯していなければそれは「罪」とならない・・・違いますか?」

【広先生】

「ちょっと待ってください、朝日奈さん! そこなんですよ。
実際の行為をもって罪と定めてしまうと、それは旧約的な罪観になりませんかね?」

次の記事 →「血統転換」と「心情転換」

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