祝福を受けても、まだ原罪が清算されていない?

祝福を受けても、まだ原罪が清算されていない?

UC関連の会社に転職して間もないころです。
同僚の食口からおもむろに浴びせられた言葉が、

「祝福を受けてもまだ原罪が精算されていないんだ・・・」
06年でしたから、かれこれ16年も前の話になります。

当時の私はすぐに反論しました。

「ちょっと待って下さいよ。
原罪というのはサタンの讒訴条件じゃないですか。

それを、サタンを愛で屈服させたメシヤ、真の父母様の祝福を受けることによって、
サタンの讒訴圏から免れて、神の血統圏に転換されたんじゃないですか?

メシヤが ”罪を許す” といったら、法廷論的にサタンは何も言えない立場なんだから
祝福を受けた者の原罪は清算されているわけでしょうに!」

しかし、彼はつづけました。

「でもね、神の血統圏につながったという祝福家庭の現状がどんなものか知っているでしょ?」

「確かに祝福家庭の現状がどうなっているのか、なんとなく聞いて知っているし、祝福を受けた人たちが人格的基準に違いがあるのは事実なので、いろいろな家庭があってもしかたがないと思うよ。

でも、それは原罪は清算されているけれども、各自堕落性が残された立場にあるからだと
昔私が原理講師をしていた時代に広先生から直接教わったし、実際自分もそう教育してきたんだからね!」

いつしか声高になっていました。

法廷論的贖罪観は反対牧師対策のための方便

すると同僚の食口は

「いや、実はその広講師が、その理論は方便だった・・・と言っているんですよ」

「ええっ? 方便? 」

当時この言葉にかなり衝撃を受けたことを記憶しています。

彼の説明は以下のようなものでした。

「80年代、既成キリスト教会からUCに反対する牧師が登場し、多くの食口を脱会させていた。、
特に祝福結婚については、儀式に参加し原罪が清算されているというのはまやかしだ。その証拠として、文先生の家庭問題をはじめ、祝福家庭の様々な実情を取り上げて説得していた。

そこで、反対牧師対策担当として白羽の矢が当たったのが、神学を学んだ経歴を持つ広先生だった。

祝福に関しては、教会の現状に対して教理的側面から理論的に説明をする必要があったため
キリスト教神学の観点を上手に活用して、祝福の恩恵をことさら強調した立場で構築した理論が法廷論的贖罪観だった・・・」

というのです。

更に、この贖罪観を、反対牧師対策のみならず、全国の原理講師に対して修練会で教育し、いつしか「教理化」させてしまったというのです。

私自身も、広先生から直接講義を受けた一人でしたし、
原罪清算のメカニズムに関しては、納得して自分の中に落とし込んでいました。

けれども、当の教育しておられた広先生本人が、その裏事情を明かしたとなれば、それが真実なら大問題です。

私はその時、すぐにでも広先生にお会いして、事の真偽を直接確認したいという強い思いがこみあげてきて、

彼に向かって、先生に直接会って確認できないのかを聞いてみたら
「広先生と面識があるから、会えるように場を設定しましょう」と、その場で約束をしてくれました。

 

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