広先生との会見
広先生との会見は、同僚のお膳立てにより、思ったより早くやってきました。
新宿のとあるレストランでお会いすることになり、待ち合わせ場所に行くと先生はすでに来られていて、遠くからもすぐに見分けがつきました。
以前修練会でお目にかかったその姿はまったく変わっていなかったからです。
「どうも初めまして。朝日奈と申します・・」
一通りの自己紹介を終えると、私から話しの本題を切り出しました。
「彼が(同僚)いうには、あの法廷論的贖罪観は先生が編みだした理論であるというのですが、事実なんですか?」
「いや、私が編み出したわけでは・・・ないんですけど・・・・その・・・キリスト教的な贖罪観を用いてUCの現状を擁護しようとしてですね・・・」
先生は申し訳なさそうな面持ちで答えられました。
「では、祝福によって原罪が清算されてないということでしょうか?」畳みかけるように質問すると
「まあ、お父様の御言からすると、そうなりますかね・・・」
と先生はかなり慎重でした。
「先生、でもですよ、かつて講義や書籍で、原罪の清算は、神様との関係を修復して、祝福を通して『あなたの罪はもうないことにしてあげる』というメシヤからの罪の許しの宣告を受けた瞬間に精算されるというもので、
原罪とは、もともと何かの物質ではなくて、堕落したアダム・エバの子孫だというサタンの讒訴圏のことなのだ。だから、原罪の清算とは、メシヤの恩寵で有罪から無罪へと天的な評価が変わり、一度に消滅してしまうという性質を持ったものだと・・・
それで私は、メシヤを中心として、必要な手続きさえ終了すれば原罪は清算されるものと理解してましたし、納得して、多くの人にも講義してきたんです!」
広先生は、熱弁をふるう私を、気の毒そうな目で見つめ返し
「私は統一教会の教学として、というより、反対牧師対策として本に書いたんですね。ところが、時間の経過とともに、食口たちへの原罪清算の説明に、まるで正式な教理のように使われるようになったというのが実情なんです。」
80年代になると、伝道が進み、多くの純粋な食口たちが献身していきましたが、その反面、脱会専門のいわゆる反対牧師の活動もUCにとってはかなり深刻な問題になっていたことを思い出します。
祝福家庭の実情もさることながら、文先生ご自身についてや、真の家庭のご子女様たちに起きた「離婚」をはじめとするさまざまな内容をどう説明すべきか、担当者でなければわからない苦悩がうかがわれました。
「この問題は罪と堕落性を分離して考えたということと
もう一つ、血統転換と心情転換を分けて考えたことに問題があるんですね。
そして、この考え方は結果的に成約的救済観ではなく、キリスト教の他力型恩寵論の再現となっているんです。プロテスタント神学の、主にカルヴァンの改革派の『契約神学』に近いものなんですね。」
先生の声の響きは実に心地良かったのですが、言っておられる内容が、私の信じた考えとの間で火花をちらしはじめ、しまいに脳の回路がショートをおこしました。
「先生、すいません、もうちょっとわかりやすく説明していただけませんか?」
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