御旨と摂理について考えます ②摂理とは何か

御旨と摂理について考えます ②摂理とは何か

摂理とは

「摂理」とは何かについて、考えてみます。

「摂理」という単語も一般社会ではほとんど使用しない言葉ですが、食口の間では頻繁に使用している馴染みのある単語だと思います。

例えば、教会主催の大会準備であったり、献金にまつわるイベントを、「●●の摂理」として意義付けしたりして使用しています。

では、文先生は、この「摂理」について、前回の「御旨」の時のうように、御言の中でどのように定義されて使われているのでしょうか。

「摂理」の定義

「御旨と世界」P805に「摂理と今昔の私」というタイトルの御言があります。(古い「御旨と世界」だと、「摂理と昔今の私」になっている)この御言の中に「摂理」の定義が載っています。

『今日の題目は、「摂理と今昔の私」です。この「摂理」とは、何でしょうか。神を中心としてつづられるすべての出来事をいうのです。あなた方は、「自分の摂理はうまく進んでいる」という言葉を使いますか。果たして私たち人間が、そのように言うことができるでしょうか。「神の摂理はうまく進んでいる」という言葉ならば、納得がいきます。摂理とは常に神を中心にしてつづられる歴史です。歴史や文化も神の摂理によるものであり、神の摂理による文化、神の摂理による歴史なのです。』

「御旨と世界」P805

この御言では、「摂理とは何でしょうか?」 という問いかけに対して、「神を中心としてつづられるすべての出来事をいう」と、先生は定義づけておられることがわかります。

「あなた方は、自分の摂理はうまく進んでいる」という言葉を使うのか。果たして私たち人間が、そのように言うことができるのか。「神の摂理はうまく進んでいる」という言葉ならば、納得がいくと言われるのです。

つまり、ここでハッキリと理解しておかなければいけないことは、「摂理」というのは人間を中心にいう言葉ではなく、常に「神を中心としたすべての出来事」であり、歴史や文化も、神の摂理によるものだと語っておられる点ですね。

そうなると、私たちの会話の中で、「あなたの摂理は今日は何か?」と尋ねたら、「僕の摂理は・・・」と言って受け答えするような会話は、この定義に照らすと明らかに使い方がおかしいのです。

「僕の」「私の」摂理とういうのは、これは納得がいかない。「神の」摂理というのなら納得がいくものだからです。

ですから、「摂理」という単語は、神様を中心とした単語であり、言い換えれば、神の責任分担の部分をいうのです。これをパーセンテージに表した表現でいうと、いわゆる「神の責任分担95%」です。これが「摂理」になるのですね。

そうなると、アダムが誕生するまでの天地創造の過程は、この定義からすると、神の摂理でありました。聖書的表現を使えば、天地創造6日間が摂理になります。

そして7日目に神は安息されたとありますから、人間誕生後は人間が創造の理想を成す期間となるので、これが「御旨」の期間となるわけです。それを「人間の責任分担5%」と表現しています。

このように「御旨」と「摂理」という単語の定義がはっきりとわかれているということです。

御旨・・・人間の責任分担

摂理・・・神の責任分担

従って、御言を訓読する際に、この違いを意識していくと、先生は必ずご自身が立てられた定義にのっとって御言を語っておられることがわかります。

 

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